医療と教育

国際武道大学名誉教授 篠田基行

はじめに

医術による治療、病院という限定された医療の場から、この周縁領域に目を向けた新しいエコ・メディカル(造語)分野に立ち上がった『小象の会」に注目と関心と期待を寄せる一人の発言です。
その活動が一般市民から学校教育の現場へと踏み込んだ啓発活動には意義深いものを感じます。今後とも、医療と教育の学際的な協力が太く切り結ばれることを 期待します。
会員の一人として発言の機会を得たいと存じます。次回より医者と教育者の関係を発言したいと存じます。

memento mori(死を忘れるな)

「死を忘れるな」私が哲学の講義で最初に聞いた言葉です。
ご承知の貝原益軒は、医聖とも評されるヒポクラテスを超える人物と評価。理由は、81歳の時に、わが国最初の纏まった教育書「和俗童子訓」を著し、名著『養生訓』は3年後の84歳に時に、自分の実践録でもある現代では健康衛生学とも言うべき健康 長寿論を著しているからです。医療と教育の関係を考える一つの知恵を示唆して いるからです。
冒頭、身体は天下四海にも替えがたしと、最大級の価値付けをし、不養生は、なしくづしの自殺行為だと俊言。
そして十人に九人は、皆みづから損 なえる、夭死する(わかじに)のが人間なのだと訓言します。
先般、元野球の張本氏が、一流選手になる鍵は、「一番大事なことを一番嫌がる」のが人間で、この壁を越える者が一流選手となると某 テレビでの話。小象の会の活動も、このような考えのもとに啓蒙活動に当たってと願うものです。
次回にまた。 (2010/2/23)

今なぜ死を

益軒の養生訓を解する資料に、不養生と奔放な欲望生活は「自らのどぶえをたつが如し」と自殺行為に等しいと訓じた部分と実行の困難さを論じる部分に真っ向から取り組んだ発言が見当たりません。なぜ「死」を死語としてきたのか、そ の理由を検討する必要がありましょう。さて教育と保健衛生の大家であった彼の二つの大著から、両者の関連を見渡す と、両著書間に一貫した健康教育思想が散見は出来るものの太い関連性が不足しているように見えてなりません。
なぜでしょうか。検討課題です。これが古代ギリシャのプラトンが晩年の作品「法律」などでは、アテナイ人の食と体育の法律から始まります。しかも医術と体育術が身体を世話する術として平等に取り上げられ、両者が共に身体を熟知している専門家だと断じています。 今日、学校教育で問題となっている悩ましい問題を考えるとき、私はどうしても、このような歴史が頭をさえぎるのです。続く (2010/2/25)

7分の食と好奇心に寄せて

益軒思想への衆知について。知らない人がいることは別に驚くことではありません。
私はヒポクラテスの博愛思想を研究するうちに、日本では益軒を比較研究 しようと取り上げたのですから。
杉靖三郎先生が教育大学時代に、よく研究していることは知っていましたが、スポーツ選手には関心外のことでしたから。しかし接して見ると素晴らしい学知の泉です。
運動生理学者の猪飼道夫氏の「日本人の体力」にも紹介があります。健康長寿運動に関心がある私には貴重。粗食についての感想。バランスの取れた食事を七分目というのが私の持論です 。
ところが養生訓で飲食は七八分程度でやめよ、十分と思えば、必ずあきみちて分を過ぎて病となると。卓見です。
好奇心についての感想。哲学は「驚き」から始まるとはアリストテレスの言葉 。しかしこれは科学の原理で、哲学はもっと以前に深く「生きる」というとこ ろに根拠があると言われます。
驚きと生きるという二つの心根を好奇心の元に。
特にヘレンケラーがサリバン先生から、水を手に当てられて全身に光が走ったと いう話が驚きと生きる1事例になると私は思いました。加瀬完先生。昔を思い出 します。では (2010/2/26)